文化庁 令和2年度 第2次補正予算事業 文化芸術活動の継続支援事業
キーワード#1:アイダホ
アメリカ合衆国50州のひとつ。広大な土地の東部にロッキー山脈が連なり、その辺りは国内屈指の山岳地帯となっている。
アメリカで3番目に広い州で、390万エーカー(約158万ヘクタール)は自然のままの荒れ地。州の6割以上は公有地である。
州都のボイジーで、マシュー・バーニーは育った。1970年代から80年代をアイダホ州で過ごした彼は、その隔離された感じに突き動かされた。
曰く、「当時は今よりもっと孤立感が強くて、山の向こう側で何が起きてるのか気になる10代の自分には、それこそ大きなものだった。」
このキーワード集で後述する「オオカミの再導入」(オオカミが絶滅した地域に、人手によって再びオオカミの群れをつくる試み)など、アイダホ州固有の事柄は神話的な意味合いを感じさせる。
マシュー・バーニーの最新フィルム作品『リダウト』(2018)は、ある意味、アイダホ州やそこに宿る力のポートレイトといえよう。個展「マシュー・バーニー:リダウト」を企画したキュレーターのパメラ・フランクは、以下のように記述している。
美しいが、同時に問題を抱える所。破滅、そして再生の両極を持つ所。完全なる孤立に駆り立てられ、実際にそう動いている。しかし、自然的な要素と人間的な物語が両方向から交錯する所。
そのような所として、マシュー・バーニーはアイダホを描いている。
本題からそれるが、アイダホ州の地図を右に90度回転させると、銃のような形になる。その形をデザインとして、マシュー・バーニーはフィルム『リダウト』のポスターに採用した。
キーワード#2:リダウト
英単語の「redoubt(リダウト)」には、いくつかの意味がある。それぞれ違う意味だが、何をおいても、まずは軍事的な要塞(ようさい)を指す単語として使われる頻度が高い。敵の攻撃を防ぐために、土などで築く仮設の建造物を「リダウト」と呼ぶ。
それから、物理的な要塞(ようさい)の比喩としても使う。例えば、他人には入り込めない、個人の心理的な領域を「リダウト」という。
外部からの影響を受けず、昔ながらのイデオロギーや宗教、文化が根強く残る場所や地域を指すのにも、「リダウト」という単語が用いられる。
さらには、以下に述べる政治運動を指す言葉でもある。マシュー・バーニーは、その意味を重視したようだ。
「リダウト」または「アメリカン・リダウト」と呼ばれる運動がある。サバイバリスト、つまり分離論者による主張で、アメリカ西部の土地を広々と使い、人口密度を高めることなく、人々の移住を促進すべきだという。
その主張に賛同する者は極右に分類され、アメリカ西部の一帯に原理主義的な信条を守り抜くコミュニティをつくるべきだ、と盲信している。そう信じる者たちは、今のアメリカ文化は荒廃し堕落し切っているという。だからこそ、荒廃や堕落を避けるために、自分たちは見た目からして純朴で、より道徳的な人生を送ろうと、アイダホのような田舎で電気や水を自給しながら暮らしている。
物理的にも、心理的にも、観念的にも、そのように外部から一斉に切り離された状態。それに対して、マシュー・バーニーは関心を持った。そうした特殊性を大枠としてとらえた上で、いかにしてアイダホ州ソートゥース山脈の辺りに広がる様々な関係性を描けるか、と考えて作品制作に打ち込んだ。
キーワード#3:ディアナとアクタイオン
アイダホ州の中央部に位置し、外部から閉ざされたソートゥース山脈の一帯。
マシュー・バーニーのフィルム作品『リダウト』(2018)は、そこを舞台にしている。古代ローマ神話「ディアナとアクタイオン」を参照しながらも、その神話を別次元に昇華させたのだ。
「ディアナとアクタイオン」は、帝政ローマ時代の詩人、オウィディウスによる「変身物語」の第三巻に収められている。
物語では、猟師のアクタイオンが、知らぬ間に小さな洞穴に迷い込んでしまう。そこでは、処女神にして狩猟の女神、ディアナが水浴していた。
突然の辱めに激怒した女神は、あ然とする猟師に水しぶきを浴びせ、彼を鹿に変えてしまう。鹿になった猟師が、自分の獣猟犬に噛みちぎられる話だ。
その神話を題材にした西洋美術は数多くあれど、マシュー・バーニーの『リダウト』が新たな物語に仕上がったのは、配役に負うところが大きい。現代的かつ、少しばかり政治的である。なにせ処女の女神を演じるのが、全米ライフル射撃チャンピオンのアネット・ワクターなのだから。彼女がアメリカ森林局のレンジャーを追跡する設定になっている。
マシュー・バーニーは、旧作でも神話や民話の類を作品の下敷きにしている。伝説的フィルム作品『クレマスター』サイクル全5部作(1994-2002)や6時間の映像オペラ『リバー・オブ・ファンダメント』(2014)でも、そうした。
彼にとって、神話は船のような器に相当する。ストーリーを重層的に紡いでゆくにあたり、必要不可欠な器なのだろう。
キーワード#4:電気めっき
電気めっき加工をした物質は、表面が金属の薄い膜で被われる。
マシュー・バーニーの作品でいうと、まず金属板が硫酸銅を含む水溶液に浸される。そこに直流の電気を通すと、水溶液中の銅イオンが金属板の表面に付着し、融合してゆくというプロセスだ。
フィルム作品『リダウト』(2018)において、マシュー・バーニーは銅板彫刻師の役を演じている。エッチングするにあたり、彼は銅板を入手した。銅板の表面は、グランドと呼ばれるアスファルトが原料の溶液で覆われている。その表面にガリガリと山の景色を彫り込み、電気めっき師(K.J.ホームズ)のトレーラーハウスに持って行のだ。
トレーラーハウスのスタジオで、銅板彫刻がめっき槽に浸され、化学反応が始まる。やがて銅が表面の線に沿うように付着してゆく。そんな様子を劇中で描いた。
まったく同じ作業工程を踏まえて、マシュー・バーニーは複製をつくった。そして、個展で発表する。その作品群は一連のシリーズでありながらも、それぞれに電気めっきを施す時間を変えていた。結果的に加工時間が短い銅板は、まだエッチングの線がはっきりしていて、何が描かれているのか識別できる。一方、長時間の加工を施したものは、銅が表面に広がってしまい、さながら抽象画のような様相を呈す。
テーマに関連づけていうと、マシュー・バーニーが6時間の映像オペラ『リバー・オブ・ファンダメント』(2014)でも多用した(オウィディウスによる「変身物語」のような)変容、宇宙を想わせるもの、そして錬金術のような魔力。そんなものを表現しているのが、電気めっきだろう。
キーワード#5:オオカミ
何世紀にも渡り、アメリカでは好き勝手に狩猟ができた。その結果、オオカミの群が激減してしまう。そこで1974年になり、まずハイイロオオカミを絶滅危惧種に指定して、連邦政府は本気で「オオカミの再導入」に取り組み始めた。
当時、アイダホ州もオオカミの「回復地域」に指定されたが、その地に若かりし頃のマシュー・バーニーは暮らしていた。
「オオカミの再導入」は激しい議論を巻き起こすことになる。牧場主は猛反発した。自分らの家畜がオオカミに殺されると考えたためだ。狩猟者やアウトドア用品店の関係者は、獲物の数が減ることを懸念していた。一方、環境保護を訴える人々は、オオカミの群れが生態系のバランスを保つ、と主張した。
アイダホを始め、オオカミの「回復地域」に指定された州では、議会、公開討論会、州をまたいだ公聴会で繰り返し討論されたが、何年も収拾がつかず、ようやく1995年に連邦政府が「オオカミの再導入」に踏み切ることになる。
この長きに渡る論争は、マシュー・バーニーの人格形成に大きくのしかかった。その地で成長した若者にとって、避けて通れない社会的要因だったのだ。オオカミにまつわる問題は、アイダホ周辺の政治的矛盾や対立を凝縮している上、人類と自然の複雑な関係に目を向けるきっかけにもなっていた。
キーワード#6:アメリカ西部
19世紀、アメリカ合衆国の領土を拡大する者には、西部が手つかずで自由な希望の地にみえた。
米国の歴史学者、フレデリック・ジャクソン・ターナーは、1893年の論文でアメリカの発展を西部開拓の精神と結びつけている。フロンティアによる開拓で領土ごとにセクションが形成されると、別のセクションと対立しつつも、より大きな全体に統合されたのがアメリカ的である、と唱えた。
18世紀後半、罠でビーバーを捕らえ、毛皮をとるフランスのトラッパーやスペインの征服者がロッキー山脈を「発見」したとされるが、その地には既にネズ・パース族、ショショーニ族、クロウ族、ラコタ族、ユト族などの先住民族が暮らしていた。実際、トラッパーや征服者(コンキスタドール)も、アメリカ先住民の姿を目撃していた。
やがて、ロッキー山脈の周辺にアメリカ開拓民が定住しだすと、合衆国政府はスペインやイギリスの一掃を図る。当時、最も手荒に排除されたのが、ほかならぬ先住民だった。
マシュー・バーニーはフイルム作品『リダウト』の「ハント5」(第5巻)で、舞踊家・振付師のサンドラ・ラムッシュを起用した。先住民であるクリー族の彼女が、米国在郷軍人会の施設(退役軍人の集会所)で、フープパフォーマンスを行うのだ。これまでに描かれてきたアメリカ西部とは違った一面を、そのシーンから読み取れるはずだ。
キーワード#7:銃
今日のアメリカで、政治的には最大級の争点。それが、銃の問題だろう。議論は二極化しており、一方は誰が銃を所有できて、どんな銃の販売が許可されるのかを厳しく規制すべき、と主張している。もう一方は銃規制を最小限にとどめるべきで、できれば規制などしないのが理想と考えている。
また、銃というものは、アメリカ社会に存在する大きな断層を顕にしている。米国では全世帯のうち30%が銃を所有しているが、田舎に行くと銃の所有率が60%に跳ね上がるのだ。
銃規制の論争が激化したことで、過激な一派の活動に火を付けてしまった。例えば、全米ライフル協会は、国内で銃を販売する際の法案すべてに猛反対する姿勢をみせてきた。
そうした米国社会に特異な現象をマシュー・バーニーは、このフィルム作品に反映させている。神話「ディアナとアクタイオン」の舞台を人里離れた現代のアメリカに置き換えたフィルムが『リダウト』(2018)といえるが、元来は“狩猟の女神”であるはずのディアナの役に、ライフル射撃の米国代表選手、アネット・ワクターを起用した。
このディアナは、ライフル銃を通して世界を見ている。彼女を追ってくるのは、オオカミか?はたまた、森林警備隊員でもある銅板彫刻師か?いずれにせよ、彼女の獲物となり、今度は自分が追う側になってゆく。そこで描かれるのは、狩る側と狩られる側の関係性であり、その関係性の逆転でもある。
本題からそれるが、アイダホ州の地図を右に90度回転させると、銃のような形になる。その形をデザインとして、マシュー・バーニーはフィルム『リダウト』のポスターに採用した。
キーワード#8:山火事
フィルム作品『リダウト』(2018)が映し出すもので、自然現象と人間活動の両域にまたがるのが、山火事である。山火事こそ、アイダホ州の中部を具現化した光景といえよう。
一方で、山火事は自然現象と呼べる。しばしば落雷が原因で発火するし、本質的に無害で森林の再生につながるものだ。他方で、山火事は人間の過失や放火が原因で引き起こされる。その割合が増えていて、地球温暖化による気温上昇への影響も懸念されている。
山火事がよく登場するのは架空のアメリカ大自然、そして俗にいう“西部”を描く時だったりもする。
マシュー・バーニーとの関連でいうと、アイダホの山火事で焼けた巨木だろう。フィルム『リダウト』と並行した個展で、彼は大がかりな彫刻のシリーズを発表している。その中に、山火事で燃えた木の幹があった。長い木の芯をくり抜き、内部に真鍮(しんちゅう)と銅を打ち込んでいる。作品の一部は、黒く焦げて炭と化している。
アイダホの自然を展覧会場まで物理的に移動させるという手法で、フィルムと彫刻に関するモノ、及びテーマを本来とは別の角度から魅せた感がある。
キーワード#9:ダンス
マシュー・バーニーのフィルム作品『リダウト』(2018)には、台詞がない。大体において、ダンスがコミュニケーションの手段となっている。
その振付を担当したコリオグラファーが、エレノア・バウアーである。彼女はコーリング・ヴァージンの役でフィルム『リダウト』に出演したが、そのほかにトラッキング・ヴァージンという役(ローラ・ストークス)も登場する。両者は劇中に即興ダンスの「コンタクト・インプロヴィゼーション」を披露する。
「コンタクト・インプロヴィゼーション」とは、木村覚による「artscape」の解説を借りれば、「重力を意識しつつ」相手と身体の「接触を続けるデュエット形式が中心の即興パフォーマンス」ということになる(2020)。
『リダウト』の中でヴァージン役のふたりは、森の動物を模倣する。さらには、これから先に起こることを身体で表現もする。
同作の後半では、別のダンスが紹介されている。アメリカ先住民の伝統を現代風にしたフープパフォーマンスだ。マシュー・バーニーが演ずる銅板彫刻師が、米国在郷軍人会の施設(退役軍人の集会所)に近づく。すると、施設内で舞踊家・振付師のサンドラ・ラムッシュが、ひとりフープダンスをしているのだ。その姿を銅板彫刻師が覗き見る設定になっている。
監督としてマシュー・バーニーは、次のように語った。「アイダホという地域、そこの風土には幾層もの重なりが見られ、そのひとつがダンスや身体表現という“言語”である点を鑑みると、現代におけるネイティブアメリカンの踊りを『リダウト』の中で描くことに意義がある」と。
【ナレーション動画】
翻訳: アンジー・ナオコ
編集:長尾望
協力:横山源二
監修:鈴木朋幸
令和2年度 文化芸術活動の継続支援事業
マシュー・バーニー『リダウト』
制作・脚本・監督:マシュー・バーニー
音楽:ジョナサン・べプラー
撮影監督:ペーター・シュトリートマン
編集:キャサリン・マケリー
製作:マシュー・バーニー、セイディ・コールズ、バーバラ・グラッドストーン
プロデューサー:マイク・べロン
照明:クリス・ウィジェット
振付:エレノア・バウアー
プロダクション・デザイン:Kanoa Baysa
アートディレクター:Jade Archuleta-Gans
出演:
アネット・ワクター(ディアナ役):ライフル射撃米国代表選手
エレノア・バウアー(コーリング・ヴァージン役):振付師・ダンサー
ローラ・ストークス(トラッキング・ヴァージン役):ダンサー・アーティスト・コントーショニスト(曲芸師)
K.J.ホームズ(電気めっき師役):ダンスアーティスト・歌手・詩人・女優
マシュー・バーニー(銅板彫刻師役)
サンドラ・ラムッシュ(フープパフォーマー役):ネイティブアメリカン・フープダンスのパフォーマー
配給:トモ・スズキ・ジャパン
後援:アメリカ大使館
協力:Matthew Barney、Gladstone Gallery New York and Brussels、Angie Naoko
Matthew Barney, Redoubt, 2018. Production still.
© Matthew Barney,courtesy Gladstone Gallery, New York and Brussels, and Sadie Coles HQ, London. Photo: Hugo Glendinning
マシュー・バーニー
米・サンフランシスコ生まれ。アイダホ州ボイシで少年時代を過ごし、1989年にイエール大学卒業。以後現在に至るまでニューヨーク在住。
学生時代にアスリートだった経験から、アートの中で身体の限界と超越を探究。創作活動の初期より、映像や彫刻、写真やドローイング、パフォーマンスや身体表現とメディアを横断する作品群を発表している。美術界にデビューすると同時にスターになり、1993年ヴェネチア・ビエンナーレのアペルト賞、1996年ヒューゴ・ボス賞など受賞多数。
身体に負荷をかけて素描するパフォーマンス《拘束のドローイング》シリーズを続ける中、記録映像にフィクション的な要素を加えたビデオ作品に行き着く。1994年から2002年までの8年間でフィルム作品シリーズ『クレマスター』サイクル全5章を発表。その5部作のうち3作品で、音楽家のジョナサン・べプラーと協働。
2005年ビョークが出演・音楽で協働したフィルム作品『拘束のドローイング9』を金沢21世紀美術館での個展でプレミア公開。同年「ベネチア映画祭」にも招待された。
ジョナサン・べプラーと共同制作した6時間の映像オペラ『RIVER OF FUNDAMENT』では、監督・制作のほか自ら出演するかたちを取っている。
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館(ニューヨーク)、サンフランシスコ近代美術館(サンフランシスコ)、金沢21世紀美術館(金沢)、ハウス・デア・クンスト(ミュンヘン)など世界各地の美術館にて個展を開催。最新のシリーズ「リダウト」は、2016年から3年間かけたプロジェクトで、彫刻やインスタレーション、フィルム作品などで構成。その個展がイェール大学美術館(2019、ニューヘイブン)で開催され、UCCA(2019、北京)、ヘイワード・ギャラリー(2020、ロンドン)へと巡回。
フィルム作品『リダウト』(2018)は、東京都写真美術館ホールで日本プレミア後、「岡山芸術交流 2019」連携プロジェクトとして岡山のシネマ・クレールで上映。
ジョナサン・べプラー
米・フィラデルフィア生まれ。バーモント州ベニントン大学に在学中の1982年より、独学で楽器の演奏を始める。
多種の楽器を操り、作曲家のルイス・カーラブロ、音楽家のビル・ディクソン、ドラマーのマイルフォード・グレイブスらを通じて音楽を磨く。
リサ・ネルソンや田中泯との協働からパフォーマンスを学び、1997年マシュー・バーニーのフィルム作品『クレマスター5』に楽曲提供。1999年『クレマスター2』と2002年『クレマスター3』でも音楽を担当している。
2003年「越後妻有 大地の芸術祭」にて「つかの間のシンフォニー:丘陵と渓谷のための聖譚曲」を発表し、CDをリリース。
6時間の映像オペラ『RIVER OF FUNDAMENT』(2014)でも、マシュー・バーニーと協働。単なる音楽担当を超え、共同名義とした。
マシュー・バーニーの最新フィルム作品『リダウト』(2018)にも音楽で参加した。
「岡山芸術交流2019」連携プロジェクト
マシュー・バーニー『リダウト』特別上映のプレスリリースは、こちら:
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