トモ・スズキ・ジャパン(TSJ)社長インタビュー 会員向けインタビューの調査票を公開
- Tomo Suzuki
- 5 日前
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2025年12月、トモ・スズキ・ジャパン(TSJ)社長の鈴木朋幸(トモ・スズキ)が、ある会員向け媒体のインタビューを受けました。インタビューそのものは発表できませんが、事前の調査票は公開可能となりました。以下につづけます。

撮影:澤野元良
―あなたの肩書は?
アート映画のプロデューサーとしています。実務では、もっと幅広いのですけどね。
―アート映画とは何ですか?
アーティストがつくる映画。そう、社内では定義しています。
あと、商売的には“アートっぽい”と他人が勝手に思う映画ですね。そんな映画の製作、配給、上映を個人や会社のプロジェクトとしてきました。
―プロジェクトに関わる立場は?
個人の場合、いわゆる「プロジェクトマネージャー」みたいな感じです。
自社が企画するプロジェクトもあれば、他社(者)が企画した案件もあります。どちらにせよ、その進行を管理する業務です。多くの場合、私がビジネススキームも考えます。「そのアートや映画、どうやって儲けるの?」みたいな問に対して、ソリューションを考える仕事ですね。
会社の場合、立場は出資の割合によって変わりますね。私たちの会社が100%おカネを出すプロジェクトなら、私はトップリーダーです。他社(者)の資本で動く案件を私たちの会社が請け負う場合、私は中間管理職みたいな立場です。中間管理職と言っても、プロジェクトの規模により、部長なのか、課長なのか、係長なのかという違いが出てきます。
―その業務で特筆すべき点は?
最大の差別化は、発表の場が多岐に渡る点です。映画だけのプロデューサーなら、エンドユーザーとの接点は映画館(劇場)や配信会社、TVやビデオ(DVD/BD)会社を通じて「その先のお客様」になりますよね。
でも、私たちはアーティストとの仕事です。だから、美術館やギャラリー、公共空間での発表も手がけます。その先にいるお客様とも接点が生まれるのです。つまり、お客様と接する場が多いのですよ。
ちなみに、映画とアート(美術)は共通分野と思われがちですが、客層は随分と違います。隣接した違う分野なんですよ。
― 映画に関しては、どんな業務内容ですか?
映画ビジネスは、「企画・製作」→「配給・宣伝」→「上映(興行)・二次利用(配信やTV、ビデオ販売)」という流れをたどります。そのどこからでも参画できるし、その一部でも全部でも仕事できるのが、私たちの強みです。
とは言え、コロナ後は他社(者)の企画はお断りしています。つまり、自分らの企画だけに専念しだしました。
―アートに関しては、どんな業務内容ですか?
現状は、自ら企画する展覧会が少し。大半は、誰かが企画した展覧会の話を振られて、出品作家らと一緒に展示作品(新作)をつくる業務ですね。ただ、それはもう終えて、自分らの企画だけにしようとしています。
―苦労話を聞かせてください
外部の環境により、仕事がポシャるのが苦労です。
例えば、2025年の初めに映画撮影のキャンセルがありました。旧ソビエト連邦のジョージアという国がありますよね?その国を代表するアーティストと、その国で映画を撮る予定だったんです。ジョージア人を監督に起用して、脚本家や撮影監督とか他の主要スタッフを日本人で固める体制でした。
2025年上旬、クランクインしようとしたら、ジョージア側の現地プロデューサーから連絡があり、撮影を延期したいと言うんです。ジョージアの首都、トビリシで大規模な市民デモが数十日つづいている。近年、ジョージアはEU加盟を目指してましたが、今の政権になってEU加盟交渉の延期を決めた。その政策はロシア寄りなのでは?と、市民が抗議のデモを始めて、そのデモが連続で数カ月もつづいてるとのこと。
その政治デモがキッカケで、別の事実が判明したのですよ。私たちの映画に出資するジョージアの企業は、親ロシア派という事実でした。反面、ジョージア側の監督やプロデューサーは親EU派です。つまり、抗議デモに参加する側ですよね。他方、映画への出資者は逆の立場だったのです。
その話を聞いて、私もスグに撮影延期を決断しました。撮影を延期して大変だったのが、スタッフや業者への補償金でした。例え映画の撮影がなくても、スタッフからすれば予定を組んでいたのですよ。急に、撮影延期と言われても、別の仕事は取れない。だから、ギャラの一部を払って欲しいと主張するのです。
その主張は真っ当ですよね。撮影延期の補填として、私たちはスタッフに然るべき合意額をお支払しました。業者にも、お支払いしました。合計で数千万円になりました。私たちからすれば、それは見込んでなかった経費が増えた状況です。
大手の映画案件なら、完成補償の保険金をかけたところですが、今回は自社主導のインディーズ映画でした。そこまで危惧せず進んだ結果、数千万円の補償が浮上した。結果、私たちが貧しくなりました。
―話は変わりますが、この仕事のきっかけは?
この仕事は、既存していませんでした。つまり、完全に独自の仕事でした。
きっかけは、偶然の連鎖です。1980年代の後半、日本はバブル景気に沸いていました。当時、東京の大学生だった私は、六本木あたりのディスコやクラブでのパーティーをオーガナイズしてました。それを始めた頃は面白かったのですよ。でも、だんだん自分がやってる事が偽物に感じてきて、海外の都市を旅するようになりました。そこで、ある種の自由を感じました。世界は広いと痛感もしました。
そんな経験から、日本の学業偏差でトップにある大学に通うより、世界の縮図みたいな環境に自分を置きたい。そう思い、ニューヨーク大学(NYU)に編入したのです。NYUで専攻を決める時、都市でイベントをやるならアートだろ?と安直に考え、美術史を本格的に学び始めたのです。
そのうち、日本人アーティストがニューヨークで展覧会をやる時のコーディネーターやリサーチャーに誘われ、美術館やらギャラリーとの仲介をしたのです。1990年代の前半で、世界的に現代美術の作家がビデオ映像を扱い出した頃でした。私はまだNYU卒業前でしたが、ビデオ作品やら映像インスタレーションの製作担当みたいな仕事が回ってきました。
その経験でプロデューサー的な資質を身に着け、卒業後はニューヨークの文化組織や商業ギャラリーで働いていたのですね。当時、アーテイストがつくる映画や映像の専門家が少なくて、さらに多くのプロジェクトに誘われるようになったみたいな流れです。
―最後に、今の仕事での喜びをお教えください
仕事の喜びは、製作した作品が賛美されることです。評論とか業界のランキングも嬉しいけど、一番はお客様の反応です。「あれ良かったよね!」とか、直接、言われるのが最も好きですね。そう言われると、なんか歴史に貢献した気になれるのです。
あとは俗的ですが、映画の場合は興行がヒットすること。やはり儲かれば嬉しいですよ。




